無防備平和条例と自治体学より引用(可読性を高めるため改行をいれております。)
http://jichitaigaku.blog75.fc2.com/blog-entry-76.html
平和を念願する市民意志を否認―札幌市長と札幌市議会―
1 市民意志を否認
2007年12月12日、「未来永劫に平和な地域であり続けたい」と念願する「札幌市民の意思」を「札幌市長と札幌市議会」は否認した。
「四万筆を超えた市民署名」は三十日間で結集したものである。市民全員の投票であったならば「百万人を超える有権者市民の意志」になっていたのだ。
札幌市民は(H19.10.1現在) 188万人で 20歳以上は 93万人
http://www.city.sapporo.jp/toukei/jinko/chiikibetu/ku/ku200710.xls
無防備署名 45,734筆
http://www.mdsweb.jp/doc/1008/1008_45z.html
市民(百万人)の4%(四万人)の署名である。(実際は2%ちょっと)
96%の人は署名に反対かその存在を知らないのである。
森啓教授は
>市民全員の投票であったならば「百万人を超える有権者市民の意志」になっていたのだ。
と言うが、本当にそうだろうか。
40,000筆は30日間で集めたというから1日あたり1,333筆で100万集めるとするなら750日以上、つまり2年以上を要する。
(試しに電卓を叩いてみたが、時間を掛ければ100万集まるというものではないはずだ。)
賛成する人、反対する人がどれくらい居るのかが重要だが署名では賛成する人の数しか見えてこない。
なので反対賛成の人の数をネット上で見てみると、反対派はどんどん出てくるが賛成派をなかなか見つけることが出来なかった。
99%は反対なのではないかと思えてくるほどだ。
この流れは
森啓教授によって削除されたコメントにも見て取れる。
人の重複もあるが100以上のコメントのほぼすべてが反対派の意見であることから、ここでは上述の4%も尊重し100人の内96人が反対、4人が賛成として計算すると
45,734 / 4 = 11,433.5 * 96 = 1,097,616
1,000,000人以上はすでに反対と考えられるのだ。
森啓教授はどういう考えで「百万人を越える」となっただろうか?
「市民の署名がいくらあろうと」「当選すればこちらの都合次第だ」では「民主主義」でない。
「民主代表制度」とは言えない。
なぜ市長は「平和であり続けようとする札幌市民の意思」を否認するのか。
なぜ「国際社会に宣言する条例」の制定に賛成をしないのか。
市長は市民に「賛成しない理由」を説明すべきである。
説明しないのは市民が納得できるほどの理由ではないからであろう。
「民主代表制度」は今ひとつわからないが、「民主主義」の原則は多数決であり、賛成意見4%未満で否決されるのは「民主主義」だと思うがどう違うのだろうか?
「札幌市民の意思」が連呼されるが、同じ札幌市民としては「4%未満の札幌市民の意思」と改めるべきである。
一緒にされては不愉快である。
森啓教授は「賛成しない理由を説明すべき」と書いてあるが、この下の『
2 札幌市長の意見書』で「市長の見解はこうである。」と賛成しない理由を書いている。
まったくもって何を言いたいのか理解不能である。
市議会もまた「市長意見書を質さず」「討論もしないで」否決した。
議員はなぜ「討論もしないで」「沈黙したままで」市民が念願する平和条例を否決したのか。
「平和を創り出そうとする市民意思」に対して「自己の所見」を開陳してこそ市民代表の議員ではないか。
だから「市民が念願する」ではなく「極少数の市民が念願する」に改めるべきである。
そして、
>「平和を創り出そうとする市民意思」に対して「自己の所見」を開陳してこそ市民代表の議員ではないか。
「無防備地域宣言をめざす札幌市民の会」の共同代表・請求代表者として森啓教授もブログでの質問に対して「自己の所見」を開陳してこそ代表ではないか。
当選すれば「議員特有の論理と倫理」で行動する。
これでは議会不信は高まるばかりである。
自分の言いたいことをブログや新聞で発言して「プロ市民特有の論理と倫理」で行動する。
これでは森啓教授と無防備地域宣言をめざす札幌市民の会(以下、無防備の会と略)への不信は高まるばかりである。
「未来への持続的平和を宣言する条例案」の審議であるのだから、議員個々人が自己の所信を表明すべきである。
討論がないのは「会派の拘束を脱する勇気」が欠落しているのである。
「勇気の無さ」は市長もまた同様である。
そのような“夢”のような条例案であるならなおさらに森啓教授と無防備の会と会員や賛同者は自己の所信を表明すべきである。
討論がないのは「質問に答える知識とその意思」「実際に占領された場合の対策」が欠落しているのである。理想はあって発言しても行動はしないのである。
ブログ炎上に耐える「勇気の無さ」は森啓教授もまた同様である。
市長も市会議員も「自分の利害と思惑」で行動しているように見える。
「市民意思」を代表しているとはとても思えない。
森啓教授も無防備の会も「自分と会の利害と思惑」で行動しているように見える。
「無防備(中略)会」を代表していて大学教授という肩書きを持っているとはとても思えない。
札幌市は「自治基本条例」を制定して「ホームページ」や「市役所だより」に「市民が主役のまちづくり」とさかんに書いている。
議場と議員控室のある階のエレベーター入り口にも電子文字で「市民主役のまちづくり」と掲示している。
だがそれらは「言葉だけ」である。「言葉だけの市民自治」である。
「未来永劫に平和な地域であり続けたい」と念願して無防備の会は活動している。
だがそれらの代表は「言葉だけ」である。
真に「未来永劫に平和な地域」を作りたいと考えているならビジョナリーというよりかなりのデイドリーマー、いわゆる「平和ボケ」である。
仮に実現されたとして夢から覚まされ問題に直面した時、占領されてしまった時にどうなるかを考えないのは「無謀なことをしようとする会」でしかないのである。
最悪の事態を想定して対応策を講じておくコトは現代において重要なのである。セキュリティと危機管理を軽んじてはならないのである。
Windowsにパッチをあてずウィルス対策をしないままインターネットを使って、ウィルスに感染した責任はまだ自分でとらなければならない世の中なのである。
理想が高いのはよろしいが“夢”でご飯は食べられないし、世迷言に巻き込まれるのは御免なのである。
だいたいにして、大多数の賛同を得られない意見を貫き通し大多数を巻き込もうというのは傲慢なワガママでしかないのだ。
それが見えていない、感じていないのであれば無防備の会と森啓教授はファナティックな宗教団体とその教祖と変わらないのだ。
次回へ続きます。